メニュー

スタッフ

『ある町の高い煙突』製作日誌
亀和夫(プロデューサー)

2016年

◆2月20日

映画『サクラ花-桜花最期の特攻-』の上映会が日立市で行われる。トークショーで「この町には煙突を巡る奇跡の物語がある」と松村克弥監督が発言。送り出しの際のパンフレット購入者へのサイン会で、多くの日立市民が取り囲み、是非、映画を作ってほしいと懇願される。

◆2月末日

城之内景子プロデューサーと監督がミーティング。戦略を練る。亀にもプロデューサーとして参加要請。サクラ花と同じ体制をとる。原作をまずは読み込むことから始める。

◆3月〜4月

3人で日立市に情報収集を兼ね、核となるものを探しに数日、出かける。市庁、日鉱記念館、図書館、各企業、商工会等訪問。日立市に応援する会を結成したいのだが、まだまだ、なかなか先が見えず、結成にはいたらない。満開の桜を見て、改めて映画化を誓う。

◆8月

予算規模が見えてきた。その総額に唖然。各所に応援のお願いにあがるが、予算が大きすぎ、総論賛成、各論反対とでもいおうか、やはり、映画化はむずかしいのか、ドキュメンタリードラマにしたほうが無難か、などの意見も出る。とりあえず、応援のお願いを兼ねた映画企画チラシを作ることにする。

◆11月〜年末

城之内PがJX金属、日立製作所とこまめにコンタクトをとり、日立製作所の東原敏明社長、JX金属の大井滋社長はじめ幹部にお会いすることができた。また、以後、楢崎裕司氏(JX金属の広報・CSR部長)には窓口として、様々なアドバイスを受ける。この方がいなかったら、きっと映画化は出来なかっただろう。

2017年

◆1月末

文藝春秋に映画化許諾の申請。シナリオは、知己でベテランの渡辺善則に発注。監督、プロデューサーも交え、本作りが進む。

◆3月

著作権者の藤原正彦氏より映画化の許可をいただく。10日水戸市にて、前知事を訪問。天心、サクラ花と応援いただいたが、今回もご支援のお約束をいただいた。その後、各企業や行政、議員を訪問。応援する会の名簿にお名前を載せていただけるよう依頼。

◆4月

再び、3人で日立市を訪問。小川春樹市長とも懇談。全面支援をお約束いただく。日立市では、誰も映画化に反対するものはいない。あとは予算だけだ。うのしまヴィラを再度訪問。館主の原田実能氏が応援する会の代表を受諾。東日本大震災でホテルが壊滅的な影響を受けたにもかかわらず、ありがたいことである。加えて、コミュニティNETひたちの代表であり、日立製作所大甕(おおみか)工場のOBであった内田芳勲氏も副代表を受諾。これで日立市に応援する会の両輪が出来た。以後、趣旨に賛同くださった皆様や共楽館を考える会の方々、ケーブルテレビJWAY、市の広報担当、鈴縫工業代表の鈴木一良氏なども加わり、体制が整う。以後ほぼ一か月に一度のペースで応援する会の会議をうのしまヴィラで開いていく。

◆5月

JX、日立製作所などの春光会グループも縁の下の力持ちとして応援する旨の回答を得る。以後、金は出すが口は出さない、という映画人には願ってもない応援体制でご支援をいただくこととなる。

◆10月

キャスティングがなかなかうまくいかない。連続ドラマや大河ドラマに拘束され、お断りされる日々が続く。雨の季節、スタジオ撮影ではないので、雨天で中止になると何か月も先まで撮影ができないことになってしまう。スタッフの押えも含め、さらに予算が膨らんでしまうことになる。監督とプロデューサー陣でキャスティングについて再度、ミーティング。

◆10月

参議院会館に山口那津男氏を表敬訪問。新田次郎さんにこの小説を書くように勧めたのは、気象庁時代の友人であった那津男氏の父である山口秀男氏である。

◆11月2日

茨城キリスト教大学にて、エキストラ登録オーディション。多くの学生が参加してくれた。

◆11月11日

映画『ある町の高い煙突』を応援する会主催のトークフォーラム開催。新知事となった大井川和彦知事、小川春樹市長、原田実能氏、松村克弥監督がそれぞれの熱い思いを語る。200人の予定が、300人ほどの熱気でむんむん。日立市で少年時代を過ごした知事は突然、煙突が歌詞に入っている宮田小学校の校歌を歌いだす。市長は、市民・行政・企業三位一体で映画制作に取り組もうと語った。

◆12月26日

無名塾訪問。「肝っ玉おっ母と子供たち」の通し稽古を拝見。仲代さんはなんと主役のおっ母の役で、3時間ほぼ出ずっぱり。ここにダイヤの原石がいた。

2018年

◆1月4日

池袋にてオーディション。主役を無名塾の井手麻渡に決定。

◆2月3日

共楽館にて、エキストラ登録オーディション。300人余の方が集まってくれた。

◆2月末

渡辺大さん、仲代達矢さん、吉川晃司さんに出演交渉のツメをする。いい話だ、シナリオもよいと皆さんに快諾していただける。

◆3月11日・12日

原宿にてヒロインオーディション。300人余の応募者。誰もが知っているであろう女優も何名も参加していて、びっくり。やはり、原作の持つ重みか。監督他、総意で、小島梨里杏に決定。

◆3月末

新たなスタッフも加わり、再度ロケハン。監督、カメラマンの辻智彦さん、美術部の長谷川功さん、それぞれが意見を出し合うが、なかなかまとまらない。クオリティある作品を作るためには安易な妥協は出来ないのは当然。はるか遠方の山形にまで撮影に行くという話が出る。プロデューサーとしては、予算が膨らむことが気になって仕方ない。

◆3月30日

日立市ロケハンの日。だが、例年より早く桜が開花。急遽、ロケハンから撮影へと変更。ピーカンでの桜満開の映像は、実は年に1日か2日。さい先のよいスタートとなった。

◆4月

数日間に渡り、衣装合わせ。東京衣装の目代博昭さん、笹倉三佳さんが奮闘して衣装を集めてくれた。また、セカンドチーフの宮本秀光氏の仕切りがよく、てきぱきと進む。

◆4月末

総合スケジュールはまだかといくつかのプロダクションより催促。いつもなら撮影前に一度、完璧なスケジュールを出すチーフ助監督島添亮氏なのだが、今回は雨で順延となると、全てが狂ってくる。1日いや1シーンの撮りこぼしが、映画の完成を何日も遅らせ、予算も膨らんでしまう可能性があるからだ。今回は総スケは出さず、天気とにらめっこしながら、2,3日ずつしか予定を出さないという。

◆5月6日

役者が入っての撮影初日、クランクイン。いい天気だ。

◆5月11日

渡辺大さんの撮影初日。早速、井手さん、小島さんとの3人の出会いの場から。いい雰囲気だ。

◆5月14日

日本映画界のレジェンド仲代さんの初日。お屋敷の中での撮影。スタッフもだが、実は一番緊張していたのは、弟子でもある井手さん。数日前の野外での撮影の待ち時間も仲代さんとのシーンを想定して、椅子ではなく、正座して待っていた。師匠の前で、足がしびれて立てないなんて恥ずかしいことは出来ないですよ、と語っていた。また、渡辺裕之さんは、仲代さんとの共演を心待ちにしていて、撮影後、芸能生活でこんなに感動したのは二回目だ、と語ってくれた。茨城愛の強いファイト一発!純粋な役者さんである。

◆5月15日

仲代さんから映像でコメントをいただく。戦中派としては、公害と核の問題は譲れない。次世代の若者に知ってもらいたい。この映画は、素敵な映画になると思います、と。早速、特報版として、YouTubeに流す。

◆5月半ば

天候がぐずつく。ついに島添助監督が、てるてる坊主を作る。そのおかげか、皆の思いが通じたのか、以後、雨は降るものの、奇跡的に場所と撮影の時間帯を外れてくれる。

◆5月24日

日立鉱山社主役の吉川さん大演説の日。多くのエキストラが集まった。吉川さん曰く、こうやって一人で多くの人に相対すると燃えるよ。役者さんは一対一の方がしゃべりやすいらしいけど、俺は逆。いつもステージでは、俺一人対何千何万のお客だからね、と。やはり、根っからのアーティストだ。

◆5月28日

井手さんが初めて吉川さんと出会うシーン。吉川さんの画面初登場の場面だが、最後に撮影。シナリオの指定どおりの場所がなかなか見つからなかったのだ。そこで、川べりを走るクラシックカーから吉川さんが降り立つのを井出さんが見つめる場面に変更。吉川さんにクラシックカーはよく似合う。本人も喜んでくれている。決して安くない車両レンタル料だが、十分に納得。その後、煙突建設のセットを俳優陣ともども下見にいく。皆、口をあんぐり。ここまでやるか。しかもこれにCGが加わる。どんな映像になるのか、期待ばかりが増す。

◆5月25日

うのしまヴィラ前の海岸にて、主演とヒロインの最後の別れの場面の撮影。この日、初めて取材規制もひかれ、記者さんたちも現場に近づけない。緊張が走る。だが、遠巻きに見ているだけで、涙がこぼれてくる名場面だ。

◆6月3日

山の上で井手さん、渡辺大さんが苗木を植えるシーンでクランクアップ。共に一か月過ごしてきた青年団の若手が最後まで残っていて二人を祝ってくれた。あとは、6月末の大島の実景撮影を残すのみだ。

◆9月

川島章正氏の編集も進み、さらにCGが加わり、その映像迫力に誰もが驚く。音楽、エンドロールなど仕上げ作業が進む。これは日立市だけのものではない。日本の宝になるストーリーを持ったこの映画を一人でも多くの方にみていただきたいと改めて思う。応援していただいた皆様、製作に関わったすべての方に感謝!